私たちのルーツ、大切にしてきたこと、そして次世代へと伝えたいこと
- 開催日時:
- 2025/07/03(木)
- 会場:
- 広島同友会 広島事務所
- 報告者:
- (株)デイ・リンク 取締役会長 川口 護 氏、ヒロボシ(株) 代表取締役 大西寛氏
- 文責者:
- 事務局 青芝
~被爆80年、中小企業家の思い~
2025年は被爆80年です。同友会では労使見解の発表から50年になります。この節目の年に、広島同友会で学んで実践し続けてこられた川口護氏、大西寛氏のお二人に事業のルーツ、子供時代、経営者として大切にしてきたこと、次世代に伝えたいことを中心に対談していただきました。以下概要をご紹介します。
■原爆後の小学生時代

川口)子供のころ同級生と一緒に原爆ドームの下で進駐軍に「ハングリー、ハングリー!」と言ってはチョコレートをもらったことがありました。
大西)二人とも中島小学校に通っていたのですが、クラスにはケロイドのある人もいました。ときどき、ABCCのワゴン車がやってきて、その子供たちを連れていき検査するのです。ある女の子は行きたくないと柱にしがみついて泣いていました。それから、原爆乙女としてアメリカにわたり外科手術を受けた人もいました。実は身内のお嫁さんは、子供が小学校のころ突然白血病を発症し亡くなりました。原因は不明ですが、胎内被曝ではないかと思います。
川口)中学校のとき、同級生の女の子の髪が突然抜け始めたり、佐々木禎子さん*のように後から症状が出る人が身近にいましたね。
大西)川野さん**たちが取り組んでいた原爆の子の像の寄付は私もしました。子供ですから10円、20円の世界ですけど。インドのネール首相が広島に来られましたね。このころ、周囲では原爆の話はタブーでした。親父からも話を聞かされていません。
川口)うちでは、逆に8.6.が近づくとピカ(原爆)の話を店内でよく聞きました。呉の空襲がひどくなり、海軍工廠に勤めていたおじさんから広島もそろそろ危ないぞと言われ7月に疎開。私の姉は病院に通っていたので広島に残っていました。この日も病院に行っていて病院の外壁のそばにいたおかげで助かりました。病院に行くとき通った橋が帰りはぐねぐねに曲がっていたそうです。
戦後は島から中央市場にいろいろなものが入ってきていました。当時の中央市場も岩国の方から木造の建物をばらして運んで建てたと聞いています。終戦後はものすごい活気がありました。地域の八百屋さんは当時組合員が300社位、今は100社で実働50社位になりました。あの頃の賑わいを懐かしく思います。
■事業のルーツ
川口)もともと呉市広の長浜で海鮮問屋をしており、幕末の打ちこわしなどがあったころに、店をたたんで広島に来たと伝え聞いています。当時の吉島新開を開拓して綿花を作っていたそうです。ところが、明治34年頃、収穫前の綿花が実っているところに雨が降り出し、私の曾祖母があわててずぶぬれになって収穫し、その後肺炎をこじらせて乳飲み子を残して亡くなりました。これをきっかけに綿花栽培をやめたそうです。この頃我が家は地区総代をしていて、地域の方から遠くまで買い物に行くのが大変だから小売業をしてほしい、と要望も出て、小売業に商売替えをしたそうです。
精米からお酒、くぎやげたまで衣食住にかかわる様々なものを地域の方の要望に応えて扱っていました。
戦時中は父親など男性は兵隊にとられ、店は一時は配給所になりました。終戦後に父が戦地から戻り広島駅に降り立つと、実家のある吉島まで見渡せる状況でした。その後、父は精米機の営業の職につきました。が、知り合いの方から「商売を始めよ」と言われて、お金のない中、中央市場で仕入れて販売を始めました。
その後、三男の私は父の勧めで商業高校に入学し、卒業後は東京の日本電気に就職しました。人事部の仕事でコンピューターを使う仕事はおもしろかったです。実家の事業は長男と従兄が手伝っていましたが、この二人が合わず、長男が家を出て東京で事業を始めました。そこで私に帰ってくるようにと声がかかりました。
「どうしてそんなに大変な仕事を続けているのか?」と父に聞くと「地域のためだ」との答え。何か腑に落ちるものがあり、「父親の目の黒いうちは会社をつぶさない」と宣言し、事業を引き継ぐ覚悟をしました。今、息子に同じことを言っている私がいます。
今年わが社は108年を迎えました。200年企業をめざして、ビジネスとしては形を変えながら地域のために続けないといけないと思っています。お客様に支えられて今があります。地域のお客様なしには我々の生活も成り立たないのです。
「倒産は犯罪だ」と聞かされました。取引先にも迷惑がかかります。何が何でも避けなければいけないと思いました。経営者だけでなく社員さんにも生活があり、会社が倒産したら社員さんと家族が路頭に迷ってしまいます。店で働いている社員さんには「お金が足りないときはすぐ言ってくれ」と言っていました。長年勤めてこられた元社員さんに会ったとき、「川口さんのおかげで子供達を大学に行かせることができたし、家のローンも支払えた」と言われました。社員さんが安心して生活できる会社にすることは大事なことです。
大西)川口さんのところは「地域に貢献する」というルーツがあるんですね。企業の生い立ち・ルーツがあり、それを代々継承されている。うちは、両親ともに松山で父は海産物を扱う家の生まれでした。五人兄弟だったこともあり、広島に出て来て、三原で酒造りを始めたそうです。終戦のときも、お酒を造っていたので酒と食べ物を物々交換していたので、食べ物には困らなかったと母が話していました。終戦のとき、私は2歳で当時の記憶はほとんどありません。小学校1年生の一学期に、川口さんと同じ中島小学校に転校しました。広島に移り住んだ理由は、電車の中で父がたまたま税務署の職員さんと居合わせて、広島の中島町の初鶴酒造が原爆でおばあさん一人が生き残り、再建が難しい状況だと聞いて、父が譲り受けることになったためでした。

夕方、広島駅に降りたとき、広島にはなにもなかった。ずっと見渡せました。小学校1年生のときですから、終戦後数年たっていますが、それでも大きな建物はありませんでした。その位被害が大きかったのだと思います。
うちの会社のルーツは父親のやってきたことを引き継いでいます。酒造りをしてきて、いい時もありました。戦後、中小企業の高度化(企業統合)を進める施策が行われ、施策にふりまわされながらも、それらを活かしてきました。企業統合も最終段階に入ったころ、私が28歳の時に酒造業を廃業しました。
父は子供の頃、商売をしているおじいさんに連れられて神戸方面に行ったときに目にした倉庫をみて、倉庫業もいいなあと思っていたそうです。そして、これから伸びていくであろう冷凍倉庫業に転業しました。これで、お酒の業界とは縁がきれるな、と思っていた矢先、「大西さん、まだ若いんだから」と声がかかり、サッポロビールさんの販社としてヒロボシ(株)をつくってもらいました。当時、地域の酒問屋は各ビールメーカーに約8社あり、卸で最後発。まずは、酒屋さんに置いてもらうことからはじめないといけない状況からのスタートでした。そのとき「ほかにないものをやったらどう?」と言われ、冷凍食品も一緒に扱い始めました。当時のお客様は川口さんのところのような地域のスーパーや酒屋さんでした。川口さんのお父さんにも、当時の番頭さんにもよくかわいがってもらいました。鳴かず飛ばずが6、7年続いたでしょうか。酒屋さんの情報はよく入ってきていたので、あそこでビアガーデン始めるらしいといった情報を掴んでは、冷凍食品も納めるようになり、一時は広島市内のすべてのビアガーデンに納めるまでになりました。そんなことから酒卸をやめて方向転換していきました。
わが社のルーツは、しくみを作ってしくみで売る会社です。しくみで飯を食っていて、営業をしません。その後、ニッスイさんが鯨がとれなくなって業務用の冷凍マグロを扱い始めました。そこで-50℃の冷凍庫を設備しました。ちょうどバブルの頃です。どんどん業務用冷凍マグロが売れて、市内のこれというお寿司屋さんには全て私どもで納めていました。
ところがバブルが崩壊し、居酒屋さんの世界に変わりました。ちょうど平成元年にニッスイの副支店長さんからの紹介で居酒屋八剣伝・酔虎伝のマルシェさんの仕事を紹介されました。それまでのケース単位で納めていた仕事から、1パック、2パックの世界です。それでも何年か先に役立つかもしれないと思い、やってみることにしました。
バブルが崩壊し、空室が増えたことから、居酒屋に貸し出す物件も増え、店を出すたびにどんどん規模も大きくなっていきました。良くなってきたと思ったら、福岡の飲酒運転による交通事故が起こり、郊外型の居酒屋はどんどんだめになっていきました。
この仕事で培ってきたしくみを生かせる仕事はないかと探していた娘婿の専務が、展示会で出会ったのがコメダ珈琲店でした。私はお酒の業界で活かされてきましたが、専務は若くてお酒も飲まない。若者のお酒離れもあり、お酒に頼らない仕事がしたいと思っていたようです。店に行ってみると何となく居心地がいい。お店の人にも余裕がある。居酒屋の仕事はきつい仕事です。もう少し楽な仕事をしてもらいたいとも思っていました。
しばらくして大町に物件が出ました。大町や府中は売上上位の店が多いところです。お金をかけて大町に中四国初のコメダ珈琲店の店舗を作り、オープンしました。後から聞くと「大西さんが出店するなら止めたのに」と言われる何度も店が入れ替わる場所だったようです。結果3年位ウェイティングの続く店となりました。その後もお話をいただきながら出店を続け、来春には10店舗目を本通りに出店します。
コメダ珈琲店出店後も、専務は他にも柱がほしいとゴンチャを紙屋町シャレオと広島パルコに出店。岡山サンステや広島駅minamoaにも出店しました。
しかし、新型コロナの影響で休業・時短営業を余儀なくされました。影響は大きかったですが、時短営業の補助金などに助けられました。新型コロナが5類になり、今は業績も回復中です。
コロナ後は、東京の居酒屋チェーン店向けの九州・四国の問屋さんが撤退したため、その仕事も引き継いでいます。このチェーンは賞味期限や在庫管理の要請が厳格なところでした。もともとわが社では販売管理メインで賞味期限や在庫管理はその端っこにあるようなシステムで動いていました。これもいい機会ととらえて、物流で賞味期限や在庫管理までできるしくみに磨きをかけることでたまさか生き残れるのではないか、そう考えて新たなシステムを構築中です。

川口)店に入って「心地いい」は、お客様はもちろん、働く人にとっても働きやすいですよね。最近、わが社の店でバイトとして働いていた高校生と大学生の二人が入社してくれました。働いてみて、いい会社だなと思っていただけた結果かなと思うとうれしいです。その人その人に特性があるので、それが生かせる役割や働きがい、生きがいをみつけてくれたらいいなと思います。
大西)そうですね。うちでもバイトから社員として就職してくれた人がいます。卸売業のほうは、次女が「私がやります」と手をあげてくれて、物流のしくみを磨き今後の大きな柱に育てています。
川口)今、京都をはじめとした観光地のお店ではインバウンドがすごい状況です。働く人一人ひとりが人生をどう過ごすか、働いて、余暇を楽しむ時間もほしいでしょう。経営者の我々も生き方を問われています。我々の時代はがむしゃらに仕事をしてきましたが、次の世代は考え方も違います。社員さんの幸せを考えると、仕事もプライベートもバランスの取れた人生、ハッピーに仕事ができることが大事ではないかと思います。
■『労使見解』に学ぶこと
川口)『労使見解』には「経営者である以上、いかに環境がきびしくとも、時代の変化に対応して、経営を維持し発展させる責任があります」、「経営者は企業の全機能をフルに発揮させて、企業の合理化を促進して生産性を高め、企業発展に必要な生産と利益を確保するために、全力を傾注しなければなりません」とあります。ここに学んで、ひたすら実践し続けてきました。
大西)札幌の全国総会のときに、アイワードの木野口さんの分科会に参加しました。自分の中のもやが晴れたようでした。『労使見解』もそうですし、同友会の『自主・民主・連帯の精神』をどう会社で生かすのか。学んだことを自社で取り組んで実践しました。これが今のわが社の風土になっています。
一緒に仕事をしている九州の食品問屋さんの上司が部下に、「大西さんの会社は違う。社員が自分で考えて判断している。うちの会社だったらすぐ上司に相談する。これがヒロボシの社風なんだろう」とぼそっと言っているのを耳にしました。
私は会社を引き継ぐときに、同友会で勉強して会社で実践し、今の会社にすることができました。学び続けることは大事です。次の世代にも勉強する機会を与えることが重要です。忙しいですが、もう少し勉強させてあげたいなと思っています。
会社は継続していくことが大事。経営者があきらめたらゼロになります。会社には先代、先々代、そして我々がひとつひとつ積み上げたものがあります。そして次の世代も積み上げていく。時代の変化にあわせて事業は変わってもいいが、継続していくことが大事。
川口)そのためにも、会社のストックとフローのバランスが大事ですね。自己資本がないとたためない会社になる。以前、同業他社の先輩経営者が、「P/Lだけでなく、うちの会社のストックを評価してほしいよなぁ」とぼやいておられました。
会社として何のために事業をするのか、我々経営者も何のために商いをしているのか?自問自答して共有していかないといけません。

■次世代へ引き継ぐ
大西)後継問題でいうと、最近話題の経営者の個人保証。取引先の金融機関では、「もうはずしてますよ」というところ、話をしてはずしてもらったところ、これから交渉のところがあります。社内でも安心できる体制をつくっていければと思います。
川口)経営と資本の分離ができる体制づくりをしたいですね。社内から後継ができるような体制に。それと、「あんなに苦労するなら社長になりたくない」と言われるような苦労をどう整理するか。なりたくない社長では誰もやってくれません。
大西)私は会社が50期で事業継承するつもりでしたが、新型コロナで先延ばし。55期に引き継ぐつもりで準備を進めています。営業ができない社長の私がしくみで売ってきた会社です。これからもしくみで食べていく会社としてルーツを継承していくと思います。
川口)同業他社で残っている会社は多くはありません。同業の方から、「川口の言っていた『人を大切にする経営』は大事だな」としみじみ言われたことがありました。経営の利益ばかり優先してしまうと働く人のことに意識がまわらなくなってしまう。それでは事業は続かないです。
我々のような小売業は半径0.5マイル、0.3マイル、さらに小さな商圏で生きていく。接客や配送も含めて生活ドメインをどう守り支えるかが課題です。社長が「お父さん、リヤカーを買おうかなと思っています」
と言っていました。これからは我々が運べて支えられる範囲の地域で生きていくことを考えています。
大型店の出店が続いていますが、過疎化を早めるのではないかと思います。使命感をもって事業をしている人たちが事業をやめてしまい、スモールビジネスが成り立たなくなる。大手さんは、採算が合わなくなると撤退する。そして地域には物を買うところも働くところも何も残らない。そんな状況になっていないでしょうか。
大西)振り返ってみると、ルーツが強みで財産。これを断ち切ると続かない。変化に対して、そこをたよりにふんばって、次の場面も出てくると思って50年以上会社を続けてくることができたと思います。今は、政策委員会に出させてもらって勉強しています。コロナ対応などいち早く教えてもらって助かりました。
経営者の務めとして学び続けないといけません。次の世代の人にもそういう機会を与えて、若い人にも勉強してもらいたいと思います。
(株)デイ・リンク
創立:大正7(1918)年6月/設立:昭和41(1966)年7月
資本金:4,200万円 年商:27億1,000万円
従業員数:134名
事業内容:酒と生鮮のスーパーマーケット
URL:https://www.day-link.com/

ヒロボシ(株)
設立:昭和45(1970)年3月
資本金:1,500万円 年商:20億円
従業員数:300名
事業内容:商社(食品・農林・水産)、外食・レストラン
URL:http://www.hiroboshi.com/

*佐々木禎子さん:川野さんの同級生。2歳で被爆して「生きたい」と願いながら12歳でこの世を去った。原爆の子の像のモデル。
**川野さん:川野登美子さん(かわの 和み 代表/同友会相談役 広島中支部)。