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2025.07.08

「佐々木貞子さんと6年竹組の仲間たち」第51回青年経営者全国交流会in広島 特別報告:ヒロシマからのメッセージ

開催日時:
2025/07/08(火)
会場:
広島国際会議場
人数:
約2000名
報告者:
かわの和み 川野 登美子 氏

原爆投下

私は、爆心地から2、3キロ離れた牛田町で被爆しました。中学3年生だった上の兄は、爆心地に1番近い国泰寺中学校(旧制一中)で、被爆しました。全身に大やけどを負いながらも、比治山方面にむけて逃げましたが、途中力尽きて、倒れてしまいました。通りがかった兵隊さんに助けられ、大河小学校へ収容されました。次の日、連絡を受け、両親が駆け付けた時には、兄は瀕ひん死しの状態でした。そして、母の手元で「僕は、残念だ!残念だ!」と言って亡くなりました。小学校の運動場の真中に、大きな穴を掘り、次から次へと亡くなっていく人達を、まるで枯れ木のように焼きました。下の兄は、比治山橋のたもとで被爆、半身に大やけどを負い、早くにがんを併発して亡くなりました。私は幸い他の家族と共に家の中にいて、かすり傷ひとつ負わずに済みました。

6年竹組

戦後9年、私は、爆心地から、1.5km離れた広島市立幟町小学校に通っていました。クラスは6年竹組。その中に「佐々木禎子さん」がいました。6年竹組は、他の組から、おんぼろ学級と言われていました。両親を原爆で亡くしたもの、家族の誰かを原爆や、戦争で亡くしたもの、南方からの引揚者の家族、クラスの半数以上がそういった環境でした。それでも、とても元気のいいクラスでした。佐々木禎子さんとは、何度もクラス替えがあったのに、小学校2年生からずっと一緒の組でした。私は、「禎ちゃん」と呼んでいました。禎ちゃんは散髪屋、私は仏壇屋。同じように親が商売をしており、環境がよく似ていたせいか、大の仲良しでした。運動神経が抜群だった禎ちゃんは、走りっこでは、男の子の誰よりも早く、それを悔しがる男子は、禎ちゃんを「猿」とあだ名で呼んでいました。

リレーの練習

その当時、運動会が1年に2回ありました。5月のこいのぼり運動会で、1番楽しみにしていたクラス対抗リレーでビリになりました。私たちは、バトンを2回も落としてしまったのです。私たちは、悔しくてたまりません。担任の野村先生から、「お前ら、つまらんのー。ビリじゃもんのー。悔しいというのは、やるだけのことをやった者が言うセリフよ!おまえら、やるだけのことをやったんか。リレーいうもんは、勝手に走りゃーええ言うもんじゃー無かろうが。チームワークが必要なんと違うかの。」と言われたのです。
そこで皆で相談をし、放課後、毎日全員でリレーの練習をすることに決めました。他のクラスからは、「竹組のやつら、勉強もせんで走ってばかりしおってー」と陰口も言われました。けれどもリレーの練習は、毎日続けました。
秋の大運動会がやってきました。紅白の勝負には全く興味がなく、注目はとにかくプログラム最後のクラス対抗リレーでした。私も禎ちゃんもリレーの選手です。今回は誰もバトンを落としません。2位を半周もリードして優勝したのです。野村先生から「どうや、やればやれんことなかったの。クラスの皆が団結すりゃードベ組があっという間にトップじゃもんのー」と褒めて頂きました。そうして卒業前日まで毎日リレーの練習を続けたのです。

原爆症

そんな中、1月に入って突然禎ちゃんが学校を休みました。禎ちゃんは1年から6年まで一度も学校を休んだことがありませんでした。次の日、いつものように放課後リレーの練習をしていると、禎ちゃんのお父さんが禎ちゃんを迎えに来ました。何度も何度も振り返りながら校門を出ていった禎ちゃんの後ろ姿がなんともいえず寂しそうで、今でも忘れることができません。

リレーの練習をやめて教室に入ると、先生が「佐々木は今日から日赤へ入院することになった。幸い今は元気じゃがなかなか難しい病気らしい。佐々木は小さい頃に原爆におうとる。それが原因らしい」と言われました。私は禎ちゃんがかわいそうという気持ちと、もし私だったらという恐怖が同時に起こり、なんともいえない不安に襲われました。クラスの3分の1は、被爆者でした。皆も同じ気持ちだったと思います「のう、みんな、佐々木はこれから長い間病気と戦わにゃいけんのじゃ。みんなで励ましてやろうや。竹組の目標は団結じゃったのう。友達が苦しんでいる時は一緒に苦しんでやろうじゃないか」と、先生が言われました。
そして、毎日交代でお見舞いに行きました。卒業の前に先生から「卒業しても、みんなで集まれるような会を作らんや」と言われて、私たちは会長を決め「団結の会」という名前にしました。そこで、小学校を卒業しても禎ちゃんのお見舞いを続けることを誓ったのです。

禎ちゃんと折り鶴

小学校を卒業しても、たびたび小学校や先生の家へ集まりました。「団結の会」の約束があったので、先生の家に行った日も、必ず禎ちゃんのお見舞いに行きました。8月に病院に行った時、禎ちゃんの手足に紫色の斑点がいっぱいできていました。私がそれに目をやると、禎ちゃんは手足を布団の中に隠すのです。その頃、病室の窓枠や、ベッドの周りには、小さい折り鶴がいっぱいぶらさげてありました。禎ちゃんは「なかなか病気が治らんけぇ、病気が治るまで折るんじゃ」「はよう中学校へ行かんと勉強が遅れるけえ」と薬のセロハン紙や包装紙を小さく切った紙で鶴を折りながら、私に中学校の様子を何度も聞くのです。私は、禎ちゃんはもう中学校に行けないということを知っていました。無心に鶴を折る禎ちゃんがかわいそうでなりませんでした。
一番辛かったのは、病院から帰る時でした。禎ちゃんは、必ず1階まで階段で見送ってくれました。1階のフロアは、玄関まで長いロビーがありました。涙をこらえて「振り返ったらいけんよ!」と言って出口まで必死で走る私たちの後ろ姿を、階段に座ってジーとみているのです。そんなことが辛くてお見舞いの回数が減っていきました。

禎ちゃんの死

10月25日9時58分、禎ちゃんは12歳の若さで永遠の眠りにつきました。その日の放課後、みんなで集まって、お寺へ行きました。そこには、棺の中に禎ちゃんが、静かに眠っていました。「なんで禎ちゃんは死なにゃならんの!なんでこんな、むごい目に合わにゃならんの!禎ちゃんに一体何の罪があったいうんね」私たちの深い悲しみは怒りに変わっていきました。「ほんま、私ら禎ちゃんに何もしてあげられんかったね」「こんなことなら、もっとお見舞いに行ってあげるべきじゃった」重苦しい後悔の念が私たちを包みました。
そこへ禎ちゃんのお父さんが、1枚の紙切れを持って野村先生と何やら話していました。その時突然禎ちゃんのお母さんが「夏ごろじゃったが、禎子が白血球が10万を超えると死ぬんじゃげなと、わしに言うたことがある」と言って大きな声で泣き出されたのです。その紙切れには、7月4日に白血球が10万を超えた数字が記されていました。そこで初めて、禎ちゃんは自分が「原爆症」ということを知っていたのではないかと気づいたのです。

何かしなければ

禎ちゃんが亡くなって14日目、「団結の会」のほとんど全員が禎ちゃんの家に集まりました。その時、先生が河本一郎さんという青年を私たちに紹介し、「この人の話を皆聞いてくれ」と言われました。河本さんは、「他の小学校でも原爆症で亡くなった子どもたちがいます。原爆で亡くなった子どもたちの慰霊碑を建てたらどうでしょうか」と話されました。禎ちゃんのために何かしなければ、という強い思いがあったので、一も二もなく賛同しました。そこで、像を作るために寄付を集めようということになりました。数日後、全国中学校長会議が広島公会堂で開かれるということを聞き、寄付を呼び掛ける声明文を作りました。

募金の呼びかけ

校長会議の当日、私たちの代表8名で公会堂に行きました。公会堂から出て来られる校長先生に1枚ずつ丁寧に「お願いします、お願いします」と言いながら必死にビラを配りました。先生の中には、ビラを受け取って、投げ捨てる人もいました。けれども、読みながらスロープを降り、しばらくして、坂を、駆け上がってきて、「応援するけーね。頑張りんさい」と言ってくださる先生もありました。2000枚のビラを、1枚残らず手渡しました。
校長会議終了から20日も経たない11月末ごろから、全国から寄付金が幟町中学校に寄せられてきました。そのお金は、生徒会が預かることになり、御礼の返事は「団結の会」の私たちが書きました。そうして昭和31年に、「原爆の子の像」建設準備委員会が開かれ、広島市の小、中、高校に呼びかけて、募金活動に賛同した学校の代表、約100名が参加して「広島平和をきずく児童生徒の会」の結成に至りました。この時点で中学1年だった元6年竹組団結の会によって始まった運動は、広島全体の児童生徒の運動に変わり、日本全国の子ども達の募金活動に広がっていったのです。平和をきずく児童生徒の会が発足してから1年足らず、昭和31年末には、当時のお金で540万円、現在に換算しますと10倍の5,400万円の募金が寄せられたのです。

「原爆の子の像」除幕式

それから、1年半、昭和33年5月5日に、「原爆の子の像」が平和公園に建立されました。除幕式の日、全国から招待された児童を含め、500名にも上る出席者の中に私たちはいました。像に掛けられた白い布が静かに引かれ、青空に美しい少女像が姿を現しました。私は、力いっぱい拍手をしました。3年間の苦労がついに実を結んだ瞬間でした。像を建立するまでは、世界平和とか、核兵器の全面禁止とか、何にも考えていませんでした。禎ちゃんの霊前で約束したことを果たしたい、それだけでした。
6年竹組は、中学校生活のほとんどを像の建立に費やしました。禎ちゃんの入院から数えると4年間を原爆と共に過ごしたこととなります。私たちの中学時代は、禎ちゃんに始まり、原爆の子の像に終わりました。一生で一番多感な時期にクラス全員で一つのことに力を注ぎ、完成させることができたのです。
それは、秋の大運動会で、リレーの練習をやり続け見事に優勝できた、あの時の喜びに似た、いやそれ以上の充実感を得たのです。野村先生が、いつもおっしゃる「団結」「継続」という言葉が体験を通して私の大切な信念となりました。

語り部

その後、映画化され、小説に書かれ、メディアでずいぶん取り上げられました。しかし、当時12歳の私たちには、つらい悲しい出来事として、心に重くのしかかり、その後、禎ちゃんのことを話さなくなりました。
それから、35年を経た1995年、戦後50年という節目の年、中小企業家同友会の全国女性交流会が広島で開催されました。テーマは「平和と経営」でした。その時、「原爆の子の像」建立の話をするよう依頼がありました。禎ちゃんについて話すことは、当時の私にとって大きな決断でした。同級生、担任の先生、今は亡き母の後押しがあって、やっと皆様の前で話をしました。年々少なくなる被爆者の一人として禎ちゃんのお話をすることで、命の大切さ、尊さを伝え、戦いのない平和な世の中を作ることが、禎ちゃんを始め原爆で亡くなった方達への供養であり使命でもあるのではないかと思うようになりました。以来、私は語り部となり、「禎ちゃんと6年竹組の仲間たち」のお話をしています。

「折り鶴ノートプロジェクト」

「原爆の子の像」が平和公園に建立されて、今年で65年になります。今では平和公園に年間1,000万羽もの折り鶴が寄せられるようになり、「原爆の子の像」は悲しみの禎子から平和のシンボルとして世界中に知られるようになりました。
6年前、同じ志を持つ同友会のメンバーが発起人となり「ピースマインズヒロシマ」を立ち上げ、「折り鶴ノートプロジェクト」の活動を始めました。

きっかけとなったのは、平和公園に寄せられる折り鶴の保管に広島市が困っているというニュースでした。全国から寄せられた折り鶴をノートに再生し、世界の子どもたちへ無償配布することで、平和の大切さ、命の尊さを伝えています。平和を願う気持ちのこもった折鶴が、形を変え、子どもたちに活用されることで、世界平和を考えるきっかけとなり、平和の心を育んでもらうことを願っての活動です。この事業は一過性のものではなく、平和への願いが続く限り継続していく事業として、ご賛同いただいた皆様の寄付によって運営しています。
活動を始め、もうすぐ7年目を迎えようとしている現在、中心メンバーのほとんどが、70代80代となりました。そこでピースマインズの活動を受け継いでいただける若い会員を募集しています。
経営を発展させていくためには、平和がとても重要です。それは日本だけではありません。世界中が平和にならなければ実現できないのです。世界平和が実現するよう、若い皆さんに大きな期待を寄せています。そのきっかけに、私の話が少しでもお役に立ちましたら幸いです。

それでは最後に、原爆の子の像の台座に刻まれている碑文をお伝えして私の話を終わりたいと思います。
これは ぼくらの叫びです
これは 私たちの 祈りです
世界に 平和をきずくための