第1回広島学を開催「広島缶詰業の沿革」
- 開催日時:
- 2025/06/19(木)
- 会場:
- 同友会 広島事務所
- 人数:
- 20名
- 報告者:
- 広島市郷土資料館 主幹学芸員 田村 規充 氏
- 文責者:
- 事務局 橋本
6月19日、広島エリア政策委員会主催の第1回広島学を開催し、20名が参加しました。
今回は、広島市郷土資料館から主幹学芸員の田村規充氏を講師に迎えて、「広島缶詰業の沿革」について学びました。
皆さんはご存じでしょうか?広島県では戦前は全国屈指の缶詰づくりが行われていたことを。
事の始まりは、賀茂郡の役人だった脇隆景という人が、明治10年にフランス人宣教師バーテルにパイナップル缶詰をふるまわれたことを契機に、缶詰業を始めたこと。その後、多くの人が缶詰業を創業します。
広島で缶詰業が発展したのには理由があります。その第1は、海・陸・山に豊富な食材があったこと。第2は物価がとても安かったこと。後に主力になる牛肉に至っては(役牛ですが)今の物価に直すとキロ250円!程度だと記録が残っています。

第3は、軍隊という大消費者の存在です。製造技術も次第に発展し、やがて欧州やアジア圏にも大いに輸出されるようになります。
大きな転機は、製缶の専門業者の登場。分業化が進み設備投資額が減ることで、さらに缶詰業者が広がったのです。

やがて、業界を引っ張ってきた牛肉の生産が追い付かず、値上がり。輸入牛を使うようになり、頭打ちになり、ミカン缶詰が主力となっていきます。リードしたのがキューピー創業者の中島薰氏が率いる中島商店。同社出資による株式会社旗道園がみかん缶詰・オレンジマーマレード缶詰を製造しました。
また同社の工場責任者だった廿日出要之進氏が中心になって、戦後に青旗缶詰株式会社を設立。これが現在のアオハタです。
ところが、戦時下統制による合併や、原爆による人的・物的被害、戦後の物資不足、その後の国際的な価格競争の中で、やがて広島の缶詰業は衰退していき、現在に至ります。
過去から現在につながるお話の一つとして、原爆資料館のある場所は、元は缶詰工場であったことなど、多くのエピソードを総会いただき、参加者は目を輝かせてお話を伺いました。